金髪・茶髪を校則で禁止することの妥当性

※この記事は大阪府の高校の黒髪強要事件前に書いたもので、事件についてはこちらで意見を書いています。

学校の校則には不可解なものがある。その一つが金髪・茶髪が禁止される理由である。この校則の存在意義は一体なんなのか。禁止は妥当なものなのだろうか。

気になったのでネットで調べてみたところ、意外にホットな話題のようで賛否両論あるようである。しかし、禁止する理由を究明したうえで、金髪茶髪にする権利と比較して妥当性を検討する記事は確認できなかった。

考慮すべきポイント

まず、そもそも金髪にする自由が存在するのか、その根拠は何かを明確にしなければならない。禁止する理由が存在し、その理由が金髪にする自由を制約する程度の妥当なものであれば校則は正当なものということができるだろう。

つまり、明確にすべきポイントは次の3つである。

  1. 金髪にする自由は存在するのか
  2. 金髪が校則で禁止されている理由が存在するか
  3. 2の理由が1の根拠を覆すものか(禁止する理由は妥当なものか)

金髪が本来自由であることの根拠(1について)

まず金髪が本来自由なのではないか、という点を考えてみる。

髪を染める行為が自分らしさを表現するための自己実現の方法であるとすれば、表現の自由として保障されるのかもしれない

また、そうでないとしても、本来的に金髪にするのは人の自由であるから、幸福追求権として保障されないだろうか。これまでの歴史で、幸福追求権から新しい人権として認められたのはプライバシー権くらいであることを考えると、少なくとも直接保障されることはないだろう。そうであるとしても、「尊重に値する」程度のことは言えるかもしれない

こうして考えてみると、思ったほど強い権利ではなさそうだな、というのが筆者の率直な意見である。保障されているのかされていないのかよくわからない、弱い権利に思える。

さらに制約を受ける場合を考えなければならない。仮に表現の自由として保障されるかあるいは尊重されるとしても、それは公共の福祉に反してはならない。つまり、髪を染めることで周囲の人に迷惑をかけてはいけないのである。

また、校則というものが学校という教育機関での教育目的の一環でなされていることにも注目する必要がある。髪を染めることが教育上よろしくない、という明確な理由があるならば、それは制約されるだろう。

以上をまとめると以下のことが言える。

  • 髪を染める権利はおそらく弱いものではあるが認められそうである。
  • 髪を染めることで他人に迷惑をかけてはいけない。
  • 髪を染めることが教育上問題があるならば制約は許される。

校則が金髪を禁止する理由(2と3について)

金髪を禁止する理由はもう一つ明確ではないので、目についた理由を検討していくことにする。その理由が教育目的として妥当なものかどうかを判断することになる。

髪や頭皮が痛むから

金髪は確かに髪が痛む可能性がある。しかし、最近では髪はともかく頭皮が痛まないものもあるようだ。たとえ頭皮が痛むとしても、それを校則にするのは行き過ぎのようにも思える。パターナリスティックな制約によって、生徒の数十年後の将来のハゲを心配するというのは、なかなかシュールな話である。

この理由は教育目的とは言えないし、金髪にする個人の頭皮以外に誰かが不利益を被ることもないだろう。

日本人のツラに金髪は似合わない

大きなお世話だ。

集団としての秩序

日本人の髪は全員もともと黒い。そのため、もし一人だけ髪の色が違うと集団の規律に反する。そのため教育目的の一環で金髪を禁止する、というものである。

しかし、教育目的だとしても、髪の色を統一することに拘らなくても、集団の秩序の教育機会は他にいくらでもあるだろう。例えば、登校時間や授業時間は決められているし、服装も制服が定められている。他の手段も採り得るのにあえて、権利を制約する髪の色で統一を図ることが妥当かというと大いに疑問がある。

もっと大きな問題もある。この理由をグローバル時代に当てはめるのは無理があるだろう。日本に帰化した人もいれば、ハーフもいる。日本人の髪は黒いという前提自体が成り立たなくなっているのである。日本人=大和民族という考え方はそろそろ放棄した方がいい。(そもそも、「日本人=大和民族」ももとから間違ってるし。)

遺伝的・体質的な理由で髪の色が金色や茶色である生徒の髪を、校則を理由に黒く染めさせることは大きな人権侵害である。

この考え方は理由としては一応成立するが(2は存在するが)、その理由が自由(1)を覆すほどのものとは言えない(3の要件を満たさない)だろう。

ところで、最近は「地毛証明書」なるものが存在して、それを持っていると、天パや地毛茶髪は「免責」されるらしい。本来自由なはずなのに「免責」される筋合いはないだろうと言いたくなる。恐ろしい制度である。この件は気が向けば書くかも。

風紀が乱れるから

一番よく挙げられる理由は「風紀が乱れるから」だろう。では「風紀」とは何なのか。明確ではないが、学校が集団生活の場であることを考えると、「集団生活における秩序」と言い替えることもできるだろう。

確かに、学校で金髪にしていた連中は風紀を乱す傾向が強かった。しかし、金髪全員が乱していたわけではない。金髪で大人しい奴もいた。

もともと「金髪禁止」という校則違反を破ってまで金髪にしてくるヤツは、校則に対する規範意識が低いため、金髪の奴が風紀を乱す傾向が強いのは当然のことである。

金髪だから風紀が乱れるのではない。風紀を乱す奴が金髪にすることが多いのである。

よって、「風紀が乱れるから」というのは事実誤認(2の要件を満たさない)であり理由は存在しない。(と筆者は思う。)

ドレスコード(対外的な秩序)

身だしなみがだらしないと相手に不快感を与えるのは万国共通である。服装や身なりはTOPをわきまえたものでなければならない。これは社会的な要請である。前述の公共の福祉に含まれるだろう。

そして、少なくとも現代の日本では、黒髪の人間が髪を金髪に染めることは広く受け入れられているとは言い難い。業界にもよるが、大半の職場では金髪はNGであることを見れば明らかである。

金髪が社会で受け入れられていないことを理解させる、あるいは金髪に対する興味を持つことを避けるのが金髪を禁止する目的であるとすれば、その理由には教育目的としての一定の合理性(2と3)が認められるだろう。

学校の近隣住民も登下校中の生徒がキンキラキンだと治安が悪くならないかと不安になる。この不安は偏見である。しかし現実に起こり得る。

そうなると当然学校に苦情のTELが入る。「一体おたくの学校ではどんな教育をしているんだ!」と。

そして、学校は「すみません、適切な指導をします」と答えるしかない。「いや、生徒が勝手にやってるんですよ。うちは自由な校風ですから」とは言わない。なかなか言えない。

近隣住民に迷惑をかけないよう(いたずらに不安を煽らないよう)最低限の秩序を維持する責任は学校にある。学校が近隣住民の迷惑に配慮して金髪を禁止することにも一定の合理性(2と3)がある。

金髪=治安悪という図式は必ずしも導かれるものではないが、世間は残念ながらそうは見てくれないのである。

筆者は個人的にはこの考え方で金髪を禁止するのは説得力があると思う。

最後に ―― 利益と不利益の行き先

校則に限らず大抵の規則には、制約される利益があると同時に、何か保護される利益も存在している。

例えば、「制限速度時速50キロ」という規則において制約される利益は、「時速60キロで走ろうとするドライバーの利益」である。これに対して、保護される利益は「近隣住民の騒音被害」であったり、「交差点を横断する歩行者の安全」であることは容易に想像できるだろう。

このように、制約による利益と不利益は必ずしも同じ場所(人)に行きつくわけではない。多数の利害関係者が複雑に絡み合う現代社会ではこのようなことが往々にして起こり得る。

金髪を禁止する校則の是非は自由に議論されるべきであるが、どこかに禁止する理由は存在する。頭から規則を否定するのではなく、規則の存在意義をよく調べてから当否を判断する必要がある。

当然これは、肯定派にも同じことが言える。「ルールだから」では理由付けとしては不十分である。

規則を否定するとしても、頭ごなしに否定するよりも、規則で守られる利益を考慮してもなお規則は不当だ、と訴える方が、はるかに説得力・迫力のある主張となる。頭ごなしの主張は社会では相手にされない。

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